弁護士 宮下佳之
Miyashita Yoshiyuki
弁護士 寺本 振透
Teramoto Shinto
2月号の記事に対して、 ある読者の方から、 次のような趣旨のご意見をいただきました。
本誌 1996 年 2 月号で、宮下氏は、 CD のジャケットは著作物であるから、 著作権者に無断でその写真を撮って、 自分のホームページに使用することはおそらく許されないと述べた。 しかし、多くの音楽雑誌が CD のジャケットの写真を使用していることからすると、 これはおかしいのではないか? むやみに著作権に縛られるのは観念的であり実用性に欠けるのではないか?
さて、かなり手厳しいご意見ですが、今回は、 あえてこのご意見を取り上げることにしました。 このご意見は、 いろいろと示唆に富む指摘を含むとともに、 私たちネットワーカーが陥りがちな、 いくつかの傾向を端的に象徴しているからです。
まず、第一に「誰かが著作物を利用していれば、 状況の違いを十分に分析せずに、 自分も利用できると思いこんでしまう」傾向があげられます。ご意見の中で、 音楽雑誌の中では CD が紹介され、 ジャケットの写真が使われているではないかというご指摘がありました。 しかし、これは音楽雑誌が、 無許諾で CD のジャケットを利用していることを意味するものではありません。 各レコード会社は、販売促進のため、 音楽雑誌に CD が紹介されるように、 むしろ積極的にジャケットの写真を配布し、 雑誌での紹介を許諾しているのです。
「じゃあ、別にホームページに載せるのだって、いいじゃないか」 と思われる方もおられるかもしれませんが、 そうした考え方は危険です。 なぜなら、音楽雑誌に載せる場合とホームページに掲載する場合では、 権利者の見方が相当に異なるからです。
1つには音楽雑誌に関して、 レコード会社なども、それがどういうもので、 どういう紹介のされ方をするのかわかるのである程度安心して利用を許諾できます。 しかし、ホームページに利用される場合には、 いったいどのようなものに、 どのように利用されるかわからないため、 現状では必要以上(?)に警戒しているという点があげられるからです。
それから、皆さんもご承知のように、 各レコード会社やタレントの所属事務所なども現在積極的にホームページを立ち上げています。 これらの企業にとって、 レコードのジャケットなどは、 格好の素材です。 自社のホームページを他のホームページと差別化して、 魅力的なものにすれば、 自社のホームページへのアクセスも増えて自社の宣伝効果も上がるし、 公告主もつきやすくなりますから、 経済的なメリットは相当に大きいわけです。 しかるに、 あちこちのホームページにレコードのジャケットのコピーが利用されていれば、 自社のホームページの魅力は半減してしまいます。 こうした理由から、 レコード会社などは、 ホームページにレコードジャケットを載せることをこころよく思っていないのが実状のようなのです。
そして、すでに説明したように、 法律的には、著作権侵害の主張に対して、 有効な反論をするのが困難であるので、 2月号で説明したように、 CD ジャケットのホームページ上での利用には、 法的なリスクがあると言わざるを得ないのです。
さて、 今回のご意見の中に象徴される第二の傾向は、 「法的なリスクの分析という、 客観的であるべき作業と主観的な主義主張とを混同しがちである」 という点があげられます。確かに、今回の質問者の方がおっしゃるように、 私たちとしてもネットワーク環境下でのあるべきガイドラインを作っていきたいと思っていますが、 一方で読者の皆さんからの質問に対して、 できるだけ正確に法的なリスク分析して、 ご説明したいと考えています。 そうでなければ、 「実用的」なものとはならないであろうと思うからです。
法的なリスク分析をするためには、 まず関連法令の規定はどうなっていて、 どのように解釈されているかを分析するとともに、 権利侵害の問題が生じうる場合には、 権利者が実際に権利主張する可能性がどの程度あるか? その場合具体的にどのような処置を講じてくると考えられるかを判断する必要があります。 六法全書を見ているだけでは、 そのような判断は決してできません。 こうした形での連載の制約上、 あまりくわしくはお話しはできませんが、私も、 今回引き続いてご説明する寺本氏もそして、松倉氏も、 ネットワーク関連のビジネスの世界で、 毎日のように依頼者とともに悩み、 関連する判例や最近の動向などを調査し、 各方面の人たちと議論し (場合によっては喧嘩し)、 想定される法的問題を踏まえて、 契約書などの書類を作り、 他人の権利に無頓着な心無い人に対しては、 警告書を送ったり仮処分その他の法的手続きを講じたりして、 日々奔走しているのです。 そのため、法的なリスクに対しては、 相当過激になっており、 だからこそもっと自由に著作物の利用が認められるべきだという主義主張を持っている質問者の方には、 私の説明が実用的でない 「権利者の立場に立った話」 と見えてしまったかもしれません。
しかし、自分の主観的な考え方と、 客観的なリスク分析とを混同してはいけません。 私たちとしては、読者の皆さんが、 いざ問題が生じたときに 「えっ?こ、こんな馬鹿な!」 と思ったりすることのないようにできるだけ正確に法的リスクをお伝えしたいと考えているのです。 (ちなみに弁護士は、そうした正確な法的リスクの分析を踏まえて、 個々の依頼者のニーズに応じて 「じゃあ、どうする」 というところまで、 アドバイスすべきだとは思いますが、 それは客観的かつ正確な法的リスクの分析があってこそ可能となるのです。 それに、そうしたニーズは、 依頼者によってさまざまなので、 この連載の中でそこまで踏み込んで説明するのが適当でない場合もあると考えています)。
ということで、 ここからは寺本氏にバトンタッチしましょう。
宮下氏が 1996 年 2 月号でなされた説明は、まったく正しい。 そして、その根拠は、上記のように、 宮下氏御自身が補足されたとおりであり、僕は、 宮下氏の意見に完全に同意する。 ただ、今回の質問が、僕らに、 ”法律家の話し方”に対する反省を迫ったことを素直に認めよう。 それに、僕らは ”私的な権利とは何か?” ってことについて、 今一度よく考えてみてみなければなるまい。
法律とひとまとめにいっても、 その中身はさまざまだ。 たとえば、 交通法規における速度規制を思い浮かべてほしい。 僕が阪神高速をわが愛車 RX-7∞ で時速 200 キロでぶっ飛ばしたとしよう。 仮に阪神高速道路公団が僕に対してそれを許したとしても、 僕が交通法規に違反したという結果は変わらない。 なぜか?それは、 交通法規による速度規制が道路の持ち主の意思に無関係に通用する絶対的な ”取締法規”だからだ。では、著作権の場合はどうか? たとえば、 僕の著作物をあなたがあなたのホームページにそのままコピーして WWW で流したとしたらどうか? あなたの行為は、 著作権法に違反したのだろうか? いや、それは違う。 そもそも、著作権”法”に違反したかどうか、 という問題の立て方が間違いだ。 著作権とは、僕の”私的な”、 つまり僕自身の考え1つでどうにでもなる権利だ。 その権利を行使して他人を排除するも、 行使しないで他人によるコピーを放置するも、 僕が1人で決めてよいことだ。
もう一度繰り返す。 著作権とは”私的な権利”である。 それを行使するも行使しないも、 権利者の自由だ。 第三者にとっては、 著作権者が権利を行使しないに決まっていると決めつけることは当然危険だし、 逆に、 著作権者が権利を行使するに決まっていると決めつけることもまったくの間違いだ。 とりわけ、 僕らがコピーしたいと考える著作物が商業目的のものであるとき、 前者のような楽観的な態度は、 しばしば権利者の怒りを買うだろう。 一方、 後者のような悲観的な決めつけによって、 権利者でもない第三者が、 他人の著作物のコピーを”法律違反だ”と決めつけるのも間違いだ。 さらに繰り返す。 著作権法とは絶対的な”取締法規”ではない。
世の中に ”権利者が文句をいわない著作物の複製” が多く存在する事実は、 著作権が”私的な権利”であるという原則を確認することによって、 説明することができる。 つまり、”権利者がその複製の存在を知らない”か、 ”権利者がその複製を黙認した”か、または ”権利者がその複製を積極的に許可した”かのいずれかだ。 したがって、 第三者によるある著作物の複製が世の中に存在することは、 僕が複製をしても権利者による排他的権利の行使によって排除されることはあるまいと推測する根拠にはならない。 権利者がその著作物を僕によってコピーされることをよしとするかどうかは、 権利者と話してみなければわからない。
僕ら法律家の業務の中心は、 具体的な依頼者から対価を得て、 依頼者が将来かぶることのあり得る法的リスクを最小化するための助言をすることだ。 そして、一般的に法律家を雇う依頼者とは、 法律家がそのような態度において助言するものであり、 決して法律家独自の世界観によって助言内容を左右しないであろうことを期待する。僕らは、その期待に応えるため、 ”依頼者が著作権者の意図を確認しないままに行動しようとされるとき”には、 依頼者のリスクを最小化するために、 ”著作権者はその著作権を行使して第三者によるコピーや有線送信などを排除しようとするであろう” という最悪の前提をとったうえで、 助言を行う。 その結果、助言がしばしば、ネガティブなものとなるのだ。
けれども、僕ら法律家にとって、 "There is a way." の精神は欠かせない。 もし、依頼者が、 ”しかし、私は、あえてXXXXしたい。”といわれるならば、 合法的に依頼者の希望を(ある程度割り引かれることがあるにしても) 達成する方法を僕らは提示しようとする。 その中身は、しばしば、 権利者との接触と交渉をすすめるものとなろう。 ときには、 あえて権利者と法廷で争う手段をすすめるかもしれない。
確かに、 雑誌のような不特定多数を対象とする媒体では、 質問者も”道を見つけられよ!”というリクエスト (それ自体、彼女または彼がおかれた具体的な環境を特定することなしには無意味なリクエストだ) を出すことは困難だ。 けれども、 より具体的な御質問をいただけるならば、 そこへいたるためのプロセスなりともここで示すことは不可能ではないと、 僕は信ずる (不器用ながらも、 前号ではそれに挑んでみたつもりだ。 読みずらいところは、申し訳ない)。
僕らは、しばしば、 ”権利者 vs. ネットワーカー”の二元論にとらわれてしまう。 ”僕らネットワーカーの自由なネットワークライフのために権利者の権利行使を制限せよ!” といったプロパガンダはとても耳に心地よいものだ。 しかし、こうした二元論をこそ、 ネットワークの健全な発展を妨げるものとして、僕は警戒する。なぜか? 僕ら1人1人は、 レジスタントであり得ると同時に、 権利者にもなりうるではないか? それに、 権利者=拘束者であるとは限らない。 権利者は、正当な対価なり評価なりを目的として、 積極的に有益な情報をネットワーク上に流してくれる存在でもある。 利用者が権利者の権利を尊重することによって、 より多くの情報がネットワーク上に流れるという期待を持つことは合理的だと僕は考える。 もちろん、 僕自身があまりにも排他的な権利主張者をけむたがる人間であることは否定しない。 しかし、情報の提供とはサービスである。 悪いサービスは、良いサービスに勝ことはできまい。 僕は、マーケットの原理を信ずる人間でもある。
余談ながら、二元論といえば、 インターネット上での猥褻画像の流布についても (i) ”絶対禁止”を叫ぶ人々と (ii) ”絶対自由”を叫ぶ人々との対立が思い浮かぶ。 1995 年 12 月号で僕がこの問題について記述したことを覚えておいでだろうか? 僕は、ここで、 (a) ”現在の日本の刑法の、 商売目的で持っている猥褻物や公にばらまかれる猥褻物だけを取り締まるやり方は正当だと考える。” かつ (b) ”しかし、 個人的に楽しむための猥褻物まで取り締まる関税定率法のやり方は行き過ぎ” と述べた。 残念ながら、 (i) のタイプの人々の中には、(a) の記述が目に入らず、 (b) の記述だけを見て、 ”寺本はとんでもない猥褻な野郎だ” とお考えになった方もおられる。 また、(ii) のタイプの人々の中には、 (b) だけを見て、 ”寺本は俺たちに賛成してるぜ!” と喜ばれた方もおられる。 僕は、どちらにも同意しない。 不特定多数が安易に見ることができる場所で猥褻物をばらまくことがよいことだとは、 僕は思わない。 それを警察が取り締まるのも正当だ。 しかし、 特定された人々に対するサービスとして、 あるいは、 少数の仲間内で猥褻物を回覧することまで国家が介入すべきではない。 公道を裸で走るな。 しかし、 公道を走るリムジンのカーテンで閉ざされた後部座席であなたが 何をしようが国家の知ったことではない。 フェアな解決は中道にあり、だ。