僕らは第4回から第6回まで連続して、 WWW をめぐるややテクニカルな問題を検討してきた。 でも、今回は少し色合いを変えて、 やや哲学的な問題を検討してみよう。もちろん、テクニカルな問題の検討が前回で終わりってわけじゃない。 哲学的な問題とテクニカルな問題をバランスよく検討することが大事だと、 terra は考えてる。 だから、この連載もすぐにテクニカルな問題に立ち返ることになる。 でも、ときにはテクニカルな問題の背景にある大きな問題にも取り組んでみようじゃないか。
今回は、読者の方からいただいた次の問題提起にとりくんでみよう。 これは、とても抽象的な問題にみえるかもしれない。 でも、 現在そして将来ネットワーク上でビジネスをする僕らが あちこちでぶつかるはずのこの問題について 考えるきっかけをもつことはとても大切だと、terra は信じている。
世間では、知的所有権イコール「コピーの問題」という図式があるようです。 しかし、私はどうもそれだけではないような気がします。「著作などによって得られる『付加価値』、 つまり『利益』は誰のものなのか?」という議論が、 意識的にか無意識にか、 さけられているような風潮を感じます。
クリエイティブな意欲を喪失させているもっとも大きな要因は 「報酬の少なさ」ではないでしょうか?
「コピーの問題」がすべてじゃないって考えには賛成だ。この連載の第3回で terra が次のように書いたのを、 読者のみなさんが覚えていてくださるとうれしいのだが…
データベースを使ったときに支払うお金って、 知的所有権とどう関係するの?それとも、 単に便利なサービスだからお金を払うだけなの?
これが、 じつは先に挙げた問題提起から派生してくる さまざまなテクニカルな現象のうちの1つなんだ。 terra が心配してるのは、 「コピーの問題」だけに目をうばわれることは (もちろん、これだって大切な問題なんだけど)、 「人間の知的労働の価値をいかに認識してどうやってむくいるべきなのか」 という本質的な問題を素通りしてしまう危険があるんじゃないかってことなんだ。
著作権法は、その目的を次のように述べている(第1条)。
この法律は、著作物並びに実演、レコード、 放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、 これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、 著作者等の権利の保護を図り、 もって文かの発展に寄与することを目的とする。
僕たちは、この条文を読めばこういうことを知ることができる…、 つまり、著作権法は「情報のかたまり」を創り上げた人々に報いるとともに、 その結果としてより多くのまたはよりすぐれた創造物が 世の中に現われることを期待しているってことだ。 そして、この目的を達する手段として、 著作権法は創造者に対して「無断コピーをさせない」 ための差止請求や損害賠償請求をする権利という武器を与えたってことも 見やすい道理だ。
この著作権法が示している文脈からすれば、 確かに「コピーの問題」は重要に違いない。
けれども、「コピーの問題」がすべてではないはずじゃないかな、 とも terra は思う。 なぜかって? いくつかの場面を想定していただけるだろうか…
その前に、登場人物を整理しておこう。 情報が創り出されてからマーケットを通じて利用者のもとに届くまでは、 たとえば次のような役割をもつ人々が登場する。
- 「情報のかたまり」を創り出した人(かりに「創作者」と呼んでおこうか)
- その「情報のかたまり」をマーケットで流通させることを商売にしている人 (出版社、情報サービスプロバイダーなど…。 かりに「流通業者」と呼ばせてもらおう)
- その「情報のかたまり」の最終的な利用者(「利用者」と呼ぼう)
たとえば、次のような場合を考えてみてほしい。
- 創作者が、流通業者を通じて自ら創り出した「情報のかたまり」を マーケットに出したいとしよう。 このとき、流通業者はべつに「無断コピー」をしようとしているわけじゃない。 創作者と流通業者の間では、 流通業者がどのような条件でどれだけの対価を創作者に支払うべきか という問題について交渉が行われるはずだ。
ここでは「コピー一部がいくらか」という問題以前に、 そもそも「情報のかたまり」はどれだけの価値をマーケットで 持っているだろうか (いいかえれば、流通業者がどれだけもうけられるだろうか) という問題のほうが重要になってくる。
- 創作者が創り出して利用者のもとに届ける「情報のかたまり」が 著作権で保護されていない場合はどうだろうか? たとえば、その「情報のかたまり」が単純な統計的数値のあつまりである場合、 著作権法では保護されないことも多いはずだ (したがって、少なくとも著作権法のもとでは、 その「情報のかたまり」をコピーすることは自由)。
だからといって、 その「情報のかたまり」が野放図にただで使われるということになると、 「創作者はその苦労が報われない」→ 「新たな情報をマーケットに出す気持ちが失せてしまう」→ 「結局は利用者も新たな情報を獲得できなくなって困る」 という悪循環におちいってしまうんじゃないだろうか。
この場合「無断コピーは違法だから、 きちんとお金を払ってコピーしなさい」という 著作権法の伝統的な考え方だけでは処理しきれない。 むしろ「他人のクリエイティブな活動のおかげで利益を得たのだから、 彼または彼女に報いるべきではないか」、 もっと具体的には「サービスを受けたらその対価を支払うべきだ」という、 プリミティブな(けれども、ごくごくまっとうな)考え方こそ 妥当ではないだろうか。
- 創作者が「情報のかたまり」を配布することによって得たいと望む利益が常に 「コピーの対価」だとは限らない。 創作者によっては、 自ら創り出した「情報のかたまり」になるべく多くの人が 無償(あるいは、ごくごく安い対価) でアクセスし、 その人たちからコメントや新しい情報をもらいたいと考えることもある。
このような場合には、無断コピーうんぬんの問題を議論するのは無意味だ。 むしろ、情報を与えられた人は そこから触発された情報をさらに発信していこうという カルチャーの問題になる。
- さらに、 流通業者が創作者から手数料をとってアクセスする道を利用者に提供する というビジネスもある。 この場合、 「理論的には」創作者と流通業者の間で手数料やサービスの内容に関して 交渉が行われるんじゃないかな (現実には、流通業者の数が増えてくれば 多くの創作者は流通業者と手数料やサービスの内容に関して交渉するよりは、 より手数料が安くてサービスの内容がよい流通業者に流れていくはずだけど)。
この交渉(または、現実の世界では、流通業者の選択)においても、 無断コピーうんぬんの問題を議論することは、 あまり意味のないことだ。それよりは、 流通業者が 「もうかるうちにせいぜいもうけておこう」 と考えるか 「長い目で見れば利用者に直接アクセスしたいという創作者たちが 大きなマーケットになるはずだから 安くて良いサービスを提供して自分のシェアを確保しておこう」 と考えるかという問題になると terra は思う。
どちらの考え方を流通業者がとるかという選択の背景には、 人のクリエイティブな活動の価値をどう評価するかという 商売上の哲学もかかわっているようなきがするんだ。
上に挙げたごくわずかな例を考えてみるだけでも、 僕らがネットワーク上で情報を提供したり、 情報を受け取ったりするという活動をビジネスとして行おうとするとき 「何ビット分のコピーの価値」ではなく、 僕らが提供したり受け取ったりする 「情報そのものの価値」を問題にしているってことがわかるはずだ。
「情報そのものの価値」が問われるってことは、 情報の「コピーのビット数」ではなく、 「その情報がどれだけ利用者の役に立ったか」あるいは 「その情報がどれだけ利用者を楽しませたか」が大事だってことだ。じゃあ、「情報そのものの価値」って誰が決めるんだろうか。 創作者が思ってる価値が、 利用者の認める価値と等しいとは限らない。 たいていの場合、 創作者が思っているほど利用者はその価値を認めてくれないものじゃないかな (でも、ときには創作者が思ってもみなかったような高い価値を利用者が認めてくれることがあることも、僕たちはしっている)。
さらに、利用者1人1人によって、 認める価値はずいぶん違ってくる (だからこそ、これだけマスの情報提供サービスが発達している現代でも、 いやそういう時代だからこそ、 一対一でお客様に助言する コンサルティング業がなりたつともいえるんじゃないかな)。
ともかく、「情報そのものの価値」がマーケットにおいてお金に換算されるときは、 「少しでも高い価値を認めさせたい創作者の思い」と 「役に立つ情報を少しでも有利に手に入れたいという利用者の思い」が交錯し、 その中間で「これぐらいの値段を付けると利益が上がるはずだな」って考えて、 流通業者が値決めをするわけだ…、 理論的にはね。
だけど、「情報そのものの価値」がし烈なマーケットで決まる世界っていうのは、 ある種の人々には居心地が悪いかもしれない。 そう、創作者のなかにだって、 毎日こつこつと労働をして成果を発表すれば、 高くはなくても安定した収入がほしいって考える人はいるだろう。 利用者のなかにだって、 より優れた情報をより有利に手に入れられるサイトを求めて出撃していく 「戦闘的消費者」 になるのなんてまっぴらだって思っている人はたくさんいるかもしれない。彼らにとっては、キログラムあたり何円で取引きされるブロイラーの肉塊のように、 コピーされた情報の「ビット数」で支出が自動的に決まる世界は とっても居心地がいいに違いない。
じゃあ、彼らのささやかな幸福を守るシステムってどんなものだろうか? それは、”ビッグブラザー”(あるいは、音楽だとか写真だとか、 創作物の種類ごとの、いわば ”ノット・ソー・ビッグ・ブラザー”でもよいかもしれない)が、 あらゆる創作者の創作物を1か所 (創作物デジタル集中管理センターってわけだ!)に集め、 あらゆる利用者によるデジタルネットワークを通じた アクセスとダウンロードを監視し、 税金のごとく課金するシステムかもしれないね。
そして、”ビッグ・ブラザー”は、 あらゆる創作者に平等な収入を保証し、 あらゆる利用者に平等な情報へのアクセスを保証してくれる。 それだけじゃない。 ”ビッグ・ブラザー”はとっても親切で、 利用者がうっかりアクセスして困惑しないように 創作物デジタル集中管理センターから、 わいせつな創作物を一掃してくれるんじゃないかな。 まさに「すばらしい新世界」ってわけだ!
でも、コピーのビット数ではなく、 情報そのものの価値がたいせつだと考える僕らにとって、 「すばらしい新世界」はやっかいものだ。 なぜなら、 僕らをわくわくさせてくれるようなすばらしい情報を提供してくれた創作者には より高い報酬をさしあげたいし、 情報探索のプロセスでダウンロードしてしまったけれど 結局役にも立たないってわかってはじき飛ばした情報には あんまりお金を支払いたいとは思わないからだ (まあ、アクセスしたんだから、 水道料なみのアクセス料金は払わなきゃいけないと思うけどね)。 それに、創作者だって利用者が認めてくれるなら 他の人より多くの報酬を手にしたいってことになるんじゃないかな。僕らは、まだ”ビッグ・ブラザー”の「すばらしい新世界」に とりこまれてしまったわけじゃない。 自分たちの力でより高い報酬を手にする自由も、 マーケットで大損する自由も、 そして望むならば”ビッグ・ブラザー”の保護を受ける自由だって持っている。
僕らは、ネットワークの大洋に漕ぎ出そうとするとき、 いずれかの道を選ぶことができる。 自信がないうちは、”ノット・ソー・ビッグ・ブラザー”の保護を受け、 自信がついたら マーケットの荒波の中へ単身であるいは仲間と船団を組んで 乗り出していってもいいじゃないか。
だけど、これだけはいっておきたい。 僕らの選択の自由を完全に奪ってしまう ”ビッグ・ブラザー”の保護を求めて泣き叫ぶのはやめようじゃないかってことを。